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1.日野大阪上の登り坂 |
2.日野自動車正門 |
3.日野自動車の塀 |
4.日野台一里塚説明板 |
1.日野大阪上の登り坂
本日は登り坂スタートです。旧道はJRに沿った左側を進みJRのガードを抜けてその先、約800m日野大阪上交差点で
合流します。合流する頃には道は平坦になりました。
2.日野自動車正門
日野大阪上交差点から5分も歩くと日野自動車の正門になります。8時前でしたが正門は開かれていました。受付係り
の方に「上人塚」の事をお聞きすると「上人塚は撤去してしまい有りません」とのことでした。撤去先は?等とお聞
きしたかったけれど早朝の忙しい時でしょうから聞かずにおいとましました。
3.日野自動車の塀
日野自動車の塀を右側に見て進むこと約600m、塀の最西端に「日野台一里塚説明板」が有りました。
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4. |
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日野台一里塚説明板の内容は以下の通りです。
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一里塚は慶長9年(1604年)、甲州街道に一里(4Km)ごとに設置された。道の両側に造られ五間四方(9m)を基準
に、高さ一丈(3m)ほどである。頂上には榎などの樹木が植えられ、旅人に木陰を提供し、距離の目安となって
いた。この付近の道幅は、九mで塚の上に雑木があり南の塚は高さ2.6mと大きいものであった。
この塚は江戸日本橋から十里目にあたり、この説明板の西90mほどの地点にあった。なお、この周辺の小字名は「一
里塚」であった。
日野市教育委員会
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----------門のある家---------- |
門のある家
日野台一里塚から次の見学予定先・大和田中央町会まで大よそ2.5Km、何かないかと見渡しながら歩きました。洒落
た門構えの家が4軒撮れました。
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1.日本橋より43Km |
2.大和田町4丁目交差点 |
3.大和田中央町会館 |
4.石造物群 |
1.日本橋より43Km
「日本橋より43Km」の道標が出てきました。間もなく大和田中央町会館。そして1Km先は「竹の鼻一里塚」などと
思いながら歩く続けました。
2.大和田町4丁目交差点
ほどなく大和田町4丁目交差点になりました。旧道は左折します。左折してほんの少し歩くと大和田中央町会館にな
りました。
3.大和田中央町会館
この写真は会館を通り越して振り返って撮った写真です。写真の中央左下に石造物群があるのが分かります。
4.石造物群
馬頭観世音碑をはじめ幾つかの石像が見れました。
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説明板:
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八王子宿を正式には「横山宿」といい、横山宿など15宿から成り立ち、現在の新町から八木町まで2.5km位の宿であった。横山宿が一番大きかったので「横山宿」という。又街道に沿った宿ばかりではなく、街道の左右にも宿が発達していた。宿内の家の数は1548軒もあった。天正18年(1590)八王子城の落城後、北条氏家臣長田作左衛門がこの地に宿を新設した。
本陣2 脇本陣3、旅籠34
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1.市立5中交差点左折 |
----- 2.竹の鼻一里塚 ----- |
1.市立5中交差点左折
大和田橋を渡り切り、「大和田橋南詰」交差点を右折し、約250m進むと市立5中交差
点になります。同交差点で左折します。
写真は左折して前方を撮ったものです。前方左側に森が見えます。目的の竹の花公
園です。
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2. |
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碑:八王子市新町5-5(竹の花公園内)
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塚説明板の内容は以下の通りです。
新町竹の鼻の一里塚跡
一里塚は慶長9年(1604年)に日本橋を起点として一里(4Km)ごとに塚を築き、榎を植えた場所です。旅人の距離の目安となったり、木陰が憩いの場になっていたともいわれています。
ここ、新町の一里塚は甲州道中八王子宿の東の入り口に位置し、江戸から12里にあたります。
明治30年(1897)の八王子大火で焼かれるまでは、大榎が涼しい木陰を作り、往時をしのばせていたようですが、現在は付近で鍵の手に曲がる道筋が、昔の面影をわずかに残しています
日野市教育委員会
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1.永福稲荷神社 |
2.手水鉢 |
3.庚申塔 |
4.芭蕉句碑 |
5.力士八光山権五郎 |
1.永福稲荷神社
甲州街道八王子宿場の入口にあったのが この永福稲荷神社です。(竹の花公園の西隣)当神社の江戸時代か
ら続く9月初めの生姜祭りは、この地域では名高いそうです。
以下の写真は境内で撮ったものです。
2.手水鉢 江戸時代の作といわれている手水鉢
3.庚申塔
4.芭蕉句碑「蝶の飛ぶばかり 野中の日かげかな」野ざらし紀行での句であってこの地に関係はないらしい。
5.力士八光山権五郎
江戸中期(寛延、宝暦)に活躍した八王子出身の力士です。身長6尺3寸(191cm)体重不詳、嶋屋という絹
問屋の跡継ぎで商売をしながら相撲を取っていました。
当時は大阪、京都で勧進相撲が盛んに行われていました。相撲が開かれる場所に自前で出かけ相撲を取って
いた・・・・等、表示板に記されていました。
永福稲荷神社を後にして西に進むとすぐT字路です。所謂「枡形」で左折し250mばかり進むと甲州街道に合
流します。街道を八王子駅入り口東・入口・入口西・横山町交差点・横山町郵便局前交差点というふうに進
んでいきます。
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1.横山町交差点1 |
2.横山町交差点2 |
3.横山町郵便局前左側 |
4.横山町郵便局前右側 |
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上の写真、横山町交差点、横山町郵便局前交差点辺りは、かっての横町宿でした。現在は、全く往時の様子を留めません。
横山町郵便局前交差点辺りに本陣、脇本陣、問屋場があったそうです。因みに写真3.横山町郵便局前左側の角が「川口宿本陣跡」だそうですが確認はできませんでした。
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1.市守神社 |
2.八幡八雲神社 |
3.横山神社 |
1.市守神社
八王子駅入口東交差点(この交差点辺りに「木戸跡」があった)を右折するとすぐ市
守神社の赤い鳥居が右に見えてきます。
横山宿では毎月四月、八日市宿では八の日に市が開かれ賑わった。
そこで、この市の取引の平穏無事を守り、人々に幸せを与える市神として「倉稲魂
命」を祭ったのが、この神社のはじまりで横山市守稲荷と呼ばれるようになったそ
うです。
2.八幡八雲神社
横山町郵便局前交差を右折して150mばかり行った左側に神社が在ります。
八幡八雲神社及び横山神社周辺は、平安時代から鎌倉時代にかけて、武蔵国の七武士
団のうち最大規模であった横山党の根拠地として東京都の旧跡として指定されていま
す。また八幡神社は八王子創始地主神として、八雲神社は八王子の地名発祥の神とい
われる神社です。
3.横山神社
横山神社は、八幡八雲神社と同じ境内に祀られています。
横山神社は横山党の始祖横山義孝を祀った神社で、和田合戦で横山党が敗退した後、
この地を支配した大江広元が建保2年(1214)に創建したと言われています。
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-----八王子道路元標----- |
八王子道路元標
表示板に記された内容は次の通りです
道路元標は、大正8年制定の旧道路法において、各市町村に一個設置するとされた石標で、道路の起終点・経過地点として利用されました。八王子市では大正9年に当時の「八幡町3番の1」に定められていました。
近年では、道路元標の設置位置を定めた法令などはありませんが、一般国道16・20号線の「八王子」を示す距離の起点として、ここに「一般国道八王子道路元標」を設置します。
本来の八王子の起点は、八日町交差点の中央部にあり、この道路元標の中心から北西に19mの位置となります。
この位置は、「一般国道16号線では起点の横浜市桜木町より40km」、「一般国道20号線では起点の中央区日本橋より45km」となっています。
と記されていました。
今は定めた法令は無いんだ!!初めて知りました。
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----- 1.八日町交差点 ----- |
2.夢美術館東 |
3.八日市宿跡碑 |
1.八日町交差点 八日町交差点辺りは、かっての八日市宿の中心でした。
2.夢美術館東交差点 この交差点のすぐ西側・道路右側に八日市宿跡碑が建っています。
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3. |
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八日市宿跡碑&説明板
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説明板によると
戦国時代の終わりごろ、それまで関東を治めていた後北条氏が滅ぼされると、豊臣秀吉の命を受け、徳川家康が新たな領主となりました。家康の統治下となった八王子では、それまでの八王子城下(現在の元八王子)から現在の市街地へ街が移転され、新しい街づくりが始められました。まず東西の道(甲州道中)が整備され、東から横山・八日市・八幡の三宿が開かれました。
江戸時代に入ると、八王子は甲州道中の宿場町として、また地域経済の中心都市として発展しました。なかでも八日市宿は横山宿と並び本陣と脇本陣がおかれ、山上家や新野家が本陣役を勤めるなど、八王子の中心的な役割を担っていました。四のつく日は横山宿、八のつく日は八日市宿で六斎市が立ち多くの人々で賑わったそうです。
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1.八幡町交差点東側 |
2.八幡町交差点西側A |
3.八幡町交差点西側B |
1.八幡町交差点東側
2.八幡町交差点西側A
3.八幡町交差点西側B ほていや(布袋屋)まるさや(丸?屋)かめや(亀屋)
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説明板:
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八幡町交差点辺りが「八幡宿」の中心で本陣、脇本陣があったようです。
因みに、写真「1.八幡町交差点東側」の左角が「山上脇本陣跡」、右角が「新野本陣跡」だそうですが確認するものがありませんでした。
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1.本郷横丁東交差点 |
-----2.産千代稲荷神社----- |
1.本郷横丁東交差点 交差点の右角に時代を感じさせる建物がありました。
この交差点を左折して約200mいくと大久保長安が祀られている産千代稲
産千代稲荷神社があります。
2.産千代稲荷神社
鳥居の左手に「史蹟大久保長安陣屋跡」の大きな石碑がああります。
大久保長安は、武田家滅亡後徳川家康の家臣になり八王子に封ぜられて八
王子の町づくりをしてきました。
幕府役人としても石見銀山奉行、佐渡金山奉行として功績をあげたが、死
後、生前の不正が発覚して一族は断絶したそうです。
稲荷神社を見たあと甲州街道に戻り左折して西に約600m進むと追分交差点
です。
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1.追分町交差点 |
2.追分町陸橋 |
3.八王子追分道標 |
4.千人同心記念碑 |
1.追分町交差点 右に進むと陣馬街道、左に進むと甲州街道
2.追分町陸橋 陸橋を渡り交差点中央で向こう側に降ります。降りたところに
八王子追分道標があります。
3.八王子追分道標
甲州街道から陣馬街道が分かれる処
この道標は文化八年(1811)江戸の清八という職人(足袋屋)が、高野山に銅製五重
塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名
路の三ヶ所に立てた道標の一つです。
その後、昭和二十年(1945)八月二日の八王子空襲にで四つに折れ、一部は行方不明
になってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていま
した。
このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建設されました。二段目と四段
目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。
4.千人同心記念碑
交差点から陣馬街道側に少し行くと千人同心の碑があります。
千人同心とは、徳川家康が関東入国とともに武蔵、甲斐との国境の甲州街道を警備するた
めに配置された十組、千人で構成された武士団で、記念碑の場所が屋敷跡とのことです。
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1.高尾山道標 |
2.芭蕉句碑 |
3無題 |
4.日本橋より48Km |
1.高尾山道標
旧道は「長房団地入口交差点」を右折しすぐ左折します。(いわゆる桝形)
左折した所に写真のような大きな道標(石碑)があります。
右 高尾山道 麓マデ一里半
左 真覺寺道 真覺寺マデ八丁
2.芭蕉句碑
3.無題 UNTITLED 1978年 オズワルド 八王子市
4.日本橋より48Km
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「散田村新地一里塚」について色々調べてみました。
@「高尾山道標」の処、A八王子市横山事務所の処 などが出てきました。
しかし、具体的な所在地の資料は見あたりませんでした。
今回、道標の「日本橋より48Km」を見たことにより「高尾山道標」が場所的に48Kmに近いと思いました。
横山事務所は、ここからまだ600mぐらい先です。
「散田村新地一里塚」に表示板がないのは場所を決めかねているということでしょう?
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1.横山事務所前 |
-----2.大衝羽根樫----- |
高尾山道の道標から20号線に戻り約600m進むと「横山事務所前」の信号になります。
信号の左側が同事務所です。事務所の駐車場に市指定天然記念物「横山出張所の大衝羽根樫(オオツクバネガシ)」があります。
目通り3.1m、樹高18m以上の堂々たる樫の仲間の大樹でした。大樹をぐるぐるっと一回りしながら写真を撮りました。
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-------1.参 道------- |
2.Y字路右折 |
3.道標 旧甲州道中 |
1.参 道
入口右側には「武蔵凌墓地参道」、左側には「多摩御陵参道」の石碑が建っていました。
この奥には「大正天皇多摩凌」「貞明皇后多摩東凌」「昭和天皇武蔵野凌」「香淳皇后武蔵野東凌」があるようで
す。
2.Y字路右折
多摩御陵入口交差点の約130m先、多摩御陵西交差点を右斜めに右折して旧道に入ります。
3.道標 旧甲州道中
旧道に入るとすぐ左側に「旧甲州道中」の道標が設置されています。
この街道は車も殆どないで非常に静かです。ゆったりと街道の雰囲気をも味わえます。
旧道は1km程先の町田街道との交差点で再び国道R20号線に合流します。
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門のある家
静かな旧道を歩きながら、街道に似合う景色を撮っていったら1Kmもあっという間にゴールです。
舗装道路も綺麗でした。家々の植栽も素敵でした。撮った写真は門構えの家が多かったようです。
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----- 高 尾 駅 舎 ----- |
高 尾 駅 舎再確認
中央線の八王子〜上野原間が開通した明治34年8月1日に浅川駅として開設。
現在の駅舎は昭和2年に新宿御苑に造られた大正天皇大葬用の仮停車場を移築したとの
ことです。
木造づくりで落ち着きがあり、優雅な佇まいは素晴らしい駅舎です。
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1.日本橋より51Km |
2.両界橋ガード |
3.お地蔵さん |
4.両界橋から |
1.日本橋より51Km
高尾駅舎から20号線に戻り、少し歩くと51Kmの道標が出てきました。
あと1Kmで日本橋より13里などと思いながら前進。
2.両界橋ガード
しばらくするとJR中央線の両界橋ガードが見えてきました。
3.お地蔵さん
ガードの左下隅に可愛らしいお地蔵さんが、花を添えられ祀られていました。
4.両界橋から
ガードを抜けると両界橋です。
橋の上から上流を望むと奥に滝が見えました。川や滝を見ると何故か心が癒されます。
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1.西浅川交差点手前 |
2西浅川交差点 |
3.駒木野方面 |
1.西浅川交差点手前の景色
両界橋からすぐの辺、この辺りが小名路と呼ばれるところで駒木野宿の下宿にあたる
そうです。
残念ながら、ここでもあまり宿場の雰囲気は感じられませんでした。
2.西浅川交差点
この交差点で国道20号線を右折して、小仏峠越えの旧甲州街道に入っていきます。
3.駒木野方面
右折して暫くしたところから進行方向の町並みを撮ったものです。
自動車は峠越えはできません。車の数は激減し、騒々しさから解放されました。
ぐっと静かになり甲州街道を往く旅人になれたような気分になれました。
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1.石造物群 |
2.出桁造り?の家 |
3.駒木野橋石碑 |
4.関番の家 |
1.石造物群
2.出桁造り?の家
「出桁造り」?、調べ直す必要がありますが、こんな言葉があった様な気がっします。
桁がおもてに出て綺麗でしかも重荘な造りです。
ここは駒木野宿の中宿。こんな家が出てくるといかにも街道らしさが強調されるような気がします。
3.駒木野橋石碑
碑には「駒木野土地区画整理事業により駒木野橋を撤去旧橋名保存のため之を設置
昭和五十九年3月吉日 駒木野土地区画整理」
とありました。皆さん思い入れがあったに違いありいません。碑に記して保存する。大賛成です。
4.関番の家
たまたま、関跡碑前のこの家のおばさんと話すことができました。「うちも関番をしていたんですよ。佐藤といい、
出は仙台です」「うちに寄ってお茶でも飲んでいきませんか」などと見ず知らずの私に話してくださいました。本当
に有難かったのですが小仏峠を越さなければなりません。残念でした。
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1.小仏関跡碑と手形石・手付き石 |
----- 2.駒木野宿碑 ----- |
3.甲州街道概要 |
1.小仏関跡碑と手形石・手付き石
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2. |
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駒木野宿碑
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駒木野宿は、関所に付随する簡易宿場というような位置付けだった。
本陣1、脇本陣1、旅籠12
3.甲州街道概要 日本紀行文学会が設置した表示板の内容は以下の通りです。
甲州街道は江戸時代の五街道の一つで甲州を経て信州の下諏訪までの道のりである。下諏訪で中仙道につながり京・大阪
へ通じる重要な街道であった。ここ駒木野は日本橋の西へ去ること約12里の地点である。
日本紀行文学会
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不明:東京都八王子市裏高尾? 不明
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HP「距離側定:キョリ測」を使い「高尾山道標」を起点にトレースすると、ここ「関所跡」あたりが丁度4Km地点です。
日本紀行文学会の表示は、12里となっているけれど13里ではなかろうか?
関所跡を見たあと「駒木野会館」によったところ運よく大勢の熟年紳士淑女に会うことができました。
「この先の、念珠坂に一里塚があったというけれどどうでしょうか?」仲間内でがやがや話しあってくれましたがどうも
埒があきません。全く想定外の「小名路」にあった」という人もいました。時間もたったのでお礼を言いお暇しました。
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1.駒木野の町並み |
----- 2.念珠坂の石造物群 ----- |
3.荒井の石造物群 |
1.駒木野の町並み
2.念珠坂の石造物群
3.荒井の石造物群
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1.蛇滝口売店 |
2.蛇滝口の清水 |
3.上行講 |
1蛇滝口売店
蛇滝口バス停の左先に古い建物があります。
これが蛇滝口売店だと思いますが戸が閉ざされていました。
軒下には蛇滝信仰の講札が端から端までびっしりと貼られて
いました。
2.蛇滝口の清水
売店の左手には谷の清水が引かれていて涼しげな音を立てな
がら流れ出ていました。
水分補給には丁度いいころ合いでガブガブと飲み干しペット
ボトルにも補給ました。
3.上行講
建物の右手に上行講碑が建っていました。きっと蛇滝信仰の
講で建てられたものと思われます。
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----- 1.JR下り線&上り線 ----- |
2.列車銃撃遭難者慰霊碑 |
1.JRトンネルと下り線&上り線
蛇滝売店の道反対側のちょっと入ったところに「湯の花トンネル列車銃撃遭難者慰霊碑
入口」の案内看板があります。
この案内板の前を真っすぐ上ると無人踏切になり、写真のようなトンネルの見えるJR下
り線と、その向こう側に上り線が見られます。
2.湯の花トンネル列車銃撃遭難者慰霊碑
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-------1.圏央道工事------ |
2.高尾山道 |
3.蛇滝水行道場入口 |
1.圏央道工事
2.高尾山道
3.蛇滝水行道場入口
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--1.摺指辺りの景色-- |
2.釣り堀 |
3.DDD |
1.摺指辺りの景色
2.釣り堀
3.DDD
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1.中央線ガード
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2.
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大下バス停
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大下バス停から小仏宿のはじまりです。宿入口に高札場があったそうで
す。
本格的な峠越えの手前に位置するが、本陣、脇本陣はなく、旅籠が11件
あったのみでした。
地名の由来は頂上に小さな石地蔵があったためとか、この地の大日堂の本
尊は土中出現の小像のためとかの説があります。
3.高尾変電所(小仏バス停)
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1.寶珠寺本堂 |
2.BBB |
3.石造物群 |
4.かごのき |
1.寶珠寺本堂
2.BBB
3.石造物群
4.かごのき
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1.S字登山道 |
2.駐車場 |
3.石碑??? |
4.小さな滝 |
1.S字登山道
2.車駐車
3.石碑???
4.小さな滝
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場所は不明:東京都八王子市裏高尾町
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宝珠寺から700mぐらい登った駐車場の辺りということです。とすると上の写真2.駐車場や3.石碑?の少し手前辺りになるかと思います。
中央自動車道の工事により登山道も変わっているようです。旧登山道の何処かにあったのでしょうか?皆目分かりませんでした。
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1.砂利道 |
2.飲料補給所 |
3.コンクリート道路 |
4.相模湖町の道標 |
1.砂利道
2.飲料補給所
3.コンクリート道路
4.相模湖町の道標
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1.小仏峠頂上 |
2.BBB |
3.CCC |
4.道標 小原宿 |
1.小仏峠頂上
2.BBB
3.CCC
4.道標 小原宿
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1.下山道 |
2.道標 中峠 |
3.鉄塔 |
4.コンクリートの曲がり角 |
1.下山道
2.道標 中峠
3.鉄塔
4.コンクリートの曲がり角
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1.舗装道路の道路標識 |
2.左下に電車道 |
3.天上は高速道路 |
4.美女温泉の案内板 |
1.舗装道路の道路標識
2.左下に電車道
3.天上は高速道路
4.美女温泉の案内板
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1.高架下に道標 |
2.旧道案内版 |
3.石碑??? |
1.高架下に道標
2.旧道案内版
3.石碑???
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1.長久保ガード1 |
2.小原宿一里塚下 |
3.長久保ガード2 |
4.底沢橋 |
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1.長久保ガード1 |
2. |
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場所不明
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写真2は「小原宿一里塚下」と表示されています。
「小原宿一里塚下」というのは、この写真の後ろの小山の上に「小原宿一里塚」があり、
位置的にその真下にこの場所が相当すると理解しました。先ほど中央高 速道路の高架橋
の下に「旧道案内版」がありました。
その通りに小原宿に向けて行くと、この山の上を通りそこには一里塚があったということ
だと思います。
3.長久保ガード2
4.底沢橋
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***第6回目 2009.06.02(火)、晴***
本日の散歩は日野から底沢橋までです。
日野から底沢橋=約22.85Km、歩数計=49546歩 歩行時間7:30〜16:35 内休憩30分 実質歩行時間 8時間35分
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