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府中はかつての武蔵国府、武蔵総社(大国魂神社)があった武蔵の国の中心。鎌倉街道が通り、甲州街道が整備されると宿場として栄えた。宮町が昔の「新宿」、宮西町が「番場宿」で現「本町」と合わせて3町がかつての府中宿である。本陣、脇本陣、旅籠屋、木賃宿、飯盛旅籠がそろっていた。
本陣1 脇本陣2 旅籠29
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-----1.常久一里塚石碑----- |
-----2.常久八幡宮----- |
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1.
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常久一里塚石碑:東京都府中市清水が丘3丁目15
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旧甲州街道の白糸台1丁目交差点の南約200m品川街道を西に向かって約300m道路左側にあります。
説明板に江戸初期に整備された甲州街道の日本橋から7里のところに設けられた一里塚の跡と伝えられる
ものである。と記されていました。
2.常久八幡宮
常久一里塚から北に向かい甲州街道に出ると道向こうに常久八幡宮があります。
八幡宮にある由来碑によると、常久(つねひさ)は、現在の若松町1丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集
落のあった村。もとは多摩川のほとりに集落があったが、洪水によって流されハケ上に移動した。 地名
の起こりは、人名によるようです。等と記されています。
***ハケ上(ハケ下)とは:多摩川河岸段丘の上(下)を意味するらしい。***
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-----1.武蔵国府八幡宮----- |
2.鍋屋横丁 |
3.八幡宿交差点の風景 |
1.武蔵国府八幡宮 府中市八幡町2-33
常久八幡神社から約1Kmのところ道路左側にあります。参道が長く、途中に京王競馬場線の
無人踏切があり、これを越えると漸く境内になり八幡宮を見ることができます。
武蔵国府八幡宮は、聖武天皇の時代(724〜749)に一国一社の八幡宮と して、創立されたと
伝わる由緒あるお宮です。
八幡宿の地名由来碑があり、八幡宿は地名で宿場ではなく、国府八幡神社周囲にできた農
業の集落と記されています。
2.鍋屋横丁 八幡宿交差点の右手前角に石碑があります。
鍋屋横丁の名は、甲州街道からこの道に入る角の家(佐藤家)の屋号「鍋屋」に由来する
そうです。現在は横丁を思わせるような風景ではありません。
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3.
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八幡宿交差点の辺り
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かっての宿場、新宿(現在は宮町)の辺りになりますが、当然昔 の面影はあり
ません。
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1.脇本陣跡 |
----------2.大国魂神社---------- |
1.脇本陣跡 大国魂神社東交差点北西の府中サウスビルがある所が脇本陣があった所らしい。
同ビル東側植込みの中に「明治天皇行在所」の説明書きがあります。
の説明書によると「この地はかって府中の大店、田中三四郎家があった所で、この田中家が明治天皇行在所になっ
ていました。
府中市では、昭和58年12月にこの行在所(御座所)を解体、移築し、平成元年3月府中市郷土の森 (府中市南町6
丁目)に、表門や玄関式台付き母屋など、武家様式をそなえたふうかくある建物として復元しました。」とありま
す。
2.大国魂神社
府中サウスビルの少し先の左側の歩道上に欅の大木が2本立っています。
ここが大国魂大神を武蔵の国魂の神と仰いで祀る神社で、景行天皇41年(111年)5月5日創立の武蔵国の総社であって
歴史ある古社です。写真は大国魂神社の大鳥居・中雀門・拝殿
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1.本町宿跡説明板 |
2.本町1・2丁目方面を望む |
3.高札場 |
4.問屋場 |
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本町宿跡説明板
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JR府中本町駅の改札口を出た左手に石の説明板が立っています。
本町(ほんまち)の集落は、現在の本町一・二丁目の一部(府中街道・鎌倉街道沿い)と宮西町二丁目の一部(府
中街道沿い)に中心があった宿場です。
2.本町1・2丁目方面を望む 現在の本町宿の様子です。
3.高札場 旧甲州街道と府中街道の交差点・市役所前交差点の南西角に現存しています。
都の旧跡に指定されている。高札場の前に甲州街道の説明碑が立っています。
高札場(こうさつば)の隣りには大国魂神社の例大祭のとき、八基の神輿が渡御するお旅所がありま した。
4.問屋場 問屋場跡で現在、中久本店がある。1859年の大の火後に建てたもので創業は1860年だそうです。
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1.番場宿説明板 |
2.宮西町4丁目の町並み |
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1.
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番場宿説明板
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府中市役所前交差点を西に200mばかりいっ
た右側に番場公園があり、道路側に説明板
があります。
番場宿は、現在の宮西町2・4・5丁目の一部
(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった
宿場です。番場宿の地名の起こりは不明で
すが、”馬場の転化”とか””番所があっ
た”からとの説があります。
2.宮西町4丁目の町並み
現在の番場宿の様子です。
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----------1.高 安 寺---------- |
2.弁慶硯の井戸 |
1.高安寺 府中市片町2-4-1 写真は山門・本堂・鐘楼です。
番場公園から約200mで「片倉交番前交差点」になります。「片倉交番前交差点」を左に入ります。
街道からは山門は見えません。足利尊氏ゆかりの名刹、暦応年間(1338ー1342)に創設されたという歴
史ある寺です。
古甲州道はこの寺の南側を通っていたそうです。
2.弁慶硯の井戸 源義経と武蔵坊弁慶らがこの地に立ち寄った際、大般若経を書き写すために境内にあ
る井戸の水で墨をすったという伝説がある「弁慶硯の井戸」と呼ばれる古井戸がありました。
(高安寺境内 左側の墓地の中を進み、奥の「秀衡稲荷」の右奥にあります)
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1.弁慶坂 |
2.石橋供養塔 |
3.弁慶橋跡 |
4.棒屋の坂 |
1.弁慶坂 高安寺から甲州街道に戻り約100mも進むと緩やかな下り坂になり道路左側に「弁
慶坂」の説明板があります。
「江戸名所図絵」(江戸時代の地誌)に、「甲州街道に架する所の橋を弁慶橋と号(なづ)
け、東の坂を弁慶坂と呼べり」とあります。
2.石橋供養塔・3.弁慶橋跡
さらに100mばかりすすみ坂を下りきると三叉路になります。交差点右手前に「石橋供養
塔」と「弁慶橋跡」の石柱が有ります。
4.棒屋の坂「棒屋の坂」の説明板は、三叉路交差点右向こうの角にあります。
説明板には坂名の由来は、坂を下りきった所の家が通称「棒屋」と呼ばれていたためとい
われています。などと書かれていました。
写真は、現在の棒屋の坂です。棒屋の坂は緩い上り坂です。マンションがいっぱい建って
いました。近所の奥さんが「道路手前左奥に「棒屋」という家がありますよ!」と親切に
教えてくれました。坂名の由来になっている「棒屋」さんのことでしょう。 時間を惜し
み尋ねませんでした。
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1.赤 門 |
2.石 塀 |
3.冠木門 |
1.赤 門 棒屋の坂道を上りきり平坦な道をしばらく行くと、右手に赤塗りの素晴らし
い門が見えてきます。
2.石 塀 さらにしばらく進むと、今度は左手に黒っぽい立派な石塀が見えてきます。
3.冠木門 石塀の続きに出てきた門が「冠木門」です。この家は民家だそうですが、府
中本陣、番場宿の矢島家の表門を移築したものだそうです。(美好町3−20)
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1.本宿町交差点 |
2.本宿碑 |
3.NEC正門 |
4.イメージ図 |
1.本宿町交差点 冠木門から200mも進み本宿町交差点で20号線に合流します。
2.本宿碑 交差点の先端に本宿碑があります。
本宿は、現在の西府町2丁目・本宿町2丁目・美好町3丁目のそれぞれ一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった
村落です。地名の起こりは、甲州街道がハケ下を通っていた頃に、この集落が宿場であったことによります。などと
記されています。
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現存 府中市日新町1の10 (NEC府中事業場内、正門から50m奥右側)
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本宿町交差点から大凡200m進むと本宿交番前交差点になります。そこを左折して約600m南下して本宿町1丁目の交
差点まで進み右折し約100m進むとNEC府中事業所です。
写真は、NEC府中事業場の正門にむけて撮ったものです。
正門の脇にある受付に一里塚を見学したい旨伝えると、快く受け付けてくれ、担当の方が現場まで親切に案内してく
ださいました。ただし、残念ながら場内撮影禁止ですので一里塚は撮影できませんでした。
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4.イメージ図 後日追加の予定
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1.本宿の常夜灯 |
2.常夜灯由来書 |
3.熊野神社 |
4.上円下方墳 |
1.本宿の常夜灯
NECの一里塚を見学した後、本宿交番前交差点まで戻ります。同交差点左側の角に本宿の常夜燈が
あります。
2.常夜灯由来書 由来書によると、ハケ下からこの台地に甲州街道が移りましたが、水に乏しく火災に苦しんだと云
います。
そこで「火伏せ」の祈祷をおこない寛政四年(1792)にこの常夜灯を設けたとあります。
3.熊野神社 本宿交番前交差点から約200m先の右側に熊野神社があります。
創建は江戸時代初期と伝えられいます。例大祭は9月中旬の土日に行われ、祭神は素戔鳴命(すさのおのみこと)で
す。もとは今の第五小学校の東側にありましたが、安永六年(1770)に現在地に映されました。拝殿は、天保
九年(1838)に再建されました。
4.上円下方墳 熊野神社境内裏手にある古墳です。修復したばかりか非常にきれいでした。
国内最大・最古の上円下方墳で、一段目の一辺は約32m、墳丘は約5mの高さがあるそうです。
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1.立派な門 |
-----2.秋葉常夜燈----- |
1.立派な門 さらに西に向かって進んでいくと右に立派な門・続いて立派な塀が出てき
て、続いて秋葉常夜燈が出てきます。
2.秋葉常夜燈 由来書によるとこの燈籠は、火難除けの神を祀る秋葉神社に由来する火伏せの守り
と、甲州道中の明かりとりとして建てられたと伝えられています。
かつては回覧板が各戸に廻り、毎夕交代で火を灯しました。「あぶらや」の屋号を持
つこの屋敷地に保存されております。と記されていました。
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-------1.谷保天満宮------- |
2.谷保天満宮-座牛 |
1.谷保天満宮 国立市谷保5209 谷保天満宮前交差点を左折します。学問の神様といわ
れる菅原道真が祀られている由緒ある神社です。
また、谷保天神が「やぼてん」になったという説があります。
「野暮な人」の野暮はここが発祥の地のようです。
2.谷保天満宮-座牛 牛と天神様(菅原道真)との伝説。この座牛は菅公を葬るために霊車
を引く牛が、悲しみのため動けなくなったことを表現したものだそうです。
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1.元上谷保村の常夜燈 |
---2.南 養 寺--- |
1.元上谷保村の常夜燈 「矢川駅入口交差点」手前の左側、南養寺の入り口にあります。
常夜燈は、江戸時代に村を火難から守るために、火伏せの神を祀った秋葉神社の常夜燈を各村の油屋
近辺に建てたもので、「秋葉燈」とも呼ばれています。
当時谷保は上谷保村、下谷保村に分かれており、この常夜燈は、上谷保村の油屋(屋号、今の甲州街
道北側の原田幸治氏宅)の東隣に置かれていたものです。
その後、道路改修のときに現在地に移されました。大正時代までは、村人が順番に毎日夕方、灯を点
していたと伝えられています。
2.南 養 寺
開山は、建長寺三十七世物外可什禅師(1363年没)と伝えられる。本尊は釈迦如来座像。現在の
本堂は、禅宗の客殿型本堂として貴重な建物である。
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---1.元青柳村の常夜燈--- |
---2.万願寺の渡し-府中側の景色--- |
1.元青柳村の常夜燈 青柳福祉センター前交差点の左向い側角にあります。
常夜燈は、江戸時代に村を火難から守るために、火伏せの神を祀った秋葉神社の常夜燈を各村の油屋付近に建てたも
ので、「秋葉燈」とも呼ばれています。
2.万願寺の渡し-府中側
元青柳村の常夜燈を見た後、南の青柳稲荷神社を通過して河川敷公園を目指します。公園入り口に万願寺渡船場跡の
表示板があります。写真のような広い河川敷を「万願寺の渡しの標示杭」が在るか見つけましたが見当たりませんで
した。
「万願寺の渡し」は、たび重なる多摩川の洪水により, 貞享元年(1684)の改修で「日野の渡し」が使われるようにな
りました。その後も万願寺の渡しは, 近隣住民の足として 長い間利用されましたが, 大正15年(1926)に日野橋がで
きたことにより廃止されました。
***今回の散歩コースは、万願寺の渡し(府中側)→日野の渡し(立川側)→日野の渡し(日野側)→万願寺の渡
し(石田側)→万願寺一里塚 のコースをとってみました。甲州街道とは異るコースになります。***
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1.日野橋交差点手前 |
2.日野橋交差点 |
3.奥多摩街道 |
4.歴史と文化の散歩道 |
1.日野橋交差点手前 日野橋交差点の道路標識です。
左折=大月・八王子 直進=青梅・昭島 右折=立川市街 5差路の予告です。
2.日野橋交差点 5差路です。
直進ですが、真正面のフォクスワーゲンの建物を挟んで左側が新奥多摩街道、右側が奥多摩街道の2手に分かれてい
ます。甲州街道は右の奥多摩街道を進みます。
3.奥多摩街道 奥多摩街道をしばらく進むと左側に「旧甲州街道」の標識が出てくるので案内に従い左折します。
4.歴史と文化の散歩道 しばらく進むと左側に体育館が現れて、「歴史と文化の散歩道」の道標が出てきます。
道標には、この体育館の脇を通っているのが昔の甲州街道です。街道はここで多摩川を渡り、日野の宿場へ続き
ます。当時は多摩川に橋がなかったので、旅人たちは舟や人力で川をわたっていました。
この渡し場は「日野の渡し」ともよばれ現在下水処理場脇に記念碑があります。などと案内されていました。
体育館から南に進み、新奥多摩街道を横切って暫くすると左側に下水道処理場、石碑が見えてきます。
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1.日野渡し場石柱 |
2.日野渡し場記念碑 |
3.日野の渡し-立川側 |
1.日野の渡し場石柱 日野の渡し場の石碑
2.日野の渡し場記念碑 日野の渡し場の記念碑
3.日野の渡し-立川側 立川側から見た多摩川の景色です。
この道は行き止まりです(地図には道路があります)。右に曲がり多摩川の方に進みます。多摩川の側道にでたら北の立日橋を目指します。立日橋を渡り日野側に入ります。
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---1.日野の渡し-日野側の景色--- |
---2.万常寺渡し-万常寺側の景色--- |
1.日野の渡し-日野側の景色 立日橋を渡りきり多摩川右岸の側道に入ると「日野渡船場跡」の説明板がありま
す。左の写真は日野側から眺めた多摩川の景色です。
2.万常寺渡し-万常寺側の景色 多摩川右岸の側道を南下して日野橋を越え中央自動車道近くまで行くと「万願寺渡
船場跡」の説明板が出てきます。左の写真は万願寺側から眺めた多摩川の景色です。
万願寺渡船場跡を後にして、中央自動道の下を潜り中央自動車道を右に見ながら西に進みます。途中T字路になりますが左折し進みます。進むとモノレールの高架橋が見えてきます。モノレールの高架橋まで進み右折し北上します。100mも進まないうちに右側に万常寺一里塚が出てきます。
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-----1.万願寺一里塚----- |
2.モノレール |
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東京都日野市万願寺2丁目38-5
南塚が現存
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「万願寺一里塚跡」は、住宅に囲まれています。ぐるっと回っていくと後ろの方に説明
板がありました。説明板によると、江戸時代初期の甲州街道は、現在の国立市青柳あた
りから多摩川を渡り、市内源平島を通じ、万願寺を経て日野宿に入った。
この一里塚は、日本橋より九里目のもので、日野市内に現存する唯一のものである。も
とは街道を挟んで2基あり、北側の1基はとり崩された。かっては両方ともに径7〜8
m、高さ3mくらいあって、塚上には大きな榎が植えられ、旅人にとっては心身の憩い
の場であった。と記されていました。
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2.モノレール
一里塚の上をモノレールが走っていました。交通に係る新旧の絵巻が見られ面白いと思
いました。
一里塚を後にしてモノレール線に沿い北上して中央自動車道のガード下まで行きます。
ここでモノレールと別れ斜め左の道路に入っていきます。ずっと直進すると日野警察署
前交差点になり旧甲州街道と合流します。
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-----名もなき地蔵堂----- |
この写真は、日野市の「東の地蔵堂」を探していた時、日野警察署前交差点の東側で偶然見つけた地蔵堂です。近所の人に聴きましたが地蔵堂の名前も分かりませんでした。現在、地蔵堂の中は空っぽだそうです。
肝心の「東の地蔵堂」は見つかりませんでした。帰宅後、調べたら日野警察署前交差点より西側の新奥多摩街道入り口交差点の右角辺りらしいことがわかりました。機会があったら見てみたいものです。
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宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで、八王子宿を整備した大久保長安
の手によって開かれている。
宿場町は物流の拠点であるとともに軍事的な拠点でもあり、軍勢が一気呵成に攻め込めない
よう宿の出入口を直角に曲げて作られていた。
その名残りが現在も見られる。本陣跡には本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物
が建っている。 本陣1 脇本陣1 旅籠20
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-------日 野 本 陣------- |
日野本陣 日野宿本陣は、都内で現存する唯一の本陣です。
日野本陣は嘉永2年正月の大火で母屋は焼失。現存の建物は、佐藤彦五郎が文久3年
に造ったもの。本陣には「佐藤道場」新撰組局長近藤勇や沖田総司が稽古に通ってい
たといいます。
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1.問屋場跡碑 |
2.日野本陣跡の辺り |
1.問屋場跡碑
「問屋場、高札場跡」の石碑は、日野の道
向い日野市立図書館脇にあります。
「甲州街道日野宿 問屋場跡 高札場跡」と
記されいます。
2.日野本陣跡の辺り
かって日野本陣や問屋場のあった辺りの現
在の様子です。
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-----1.西の地蔵堂----- |
2.日野駅舎 |
1.西の地蔵堂
「日野市役所入口交差点」の先で右斜めの道(旧道)に入り、突き当たりを左折しま
す。
国道を横断して、そのまま行くと左が宝泉寺。坂道を進んでいき線路手前に日野宿の
西の入口の「坂下地蔵」があります。
2.日野駅舎
民芸調の入母屋造りの駅舎。多摩の米蔵と称され「八丁田圃」と呼ばれる稲作地帯だ
った。その田園風景との調和を考えたデザインだそうです。
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***第5回目 2009.05.19(火)、晴***
本日の散歩は多磨霊園から日野までの約16Kmで終了です。
下高井戸〜玉川霊園=約16Km、歩数計=45924歩 歩行時間7:45〜16:50 内休憩30分=実質歩行時間 8時間35分
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