甲州古道 富士山道ひとり旅
***第3回目 2009.04.30(木)(晴) 本日は日本橋からから下高井戸までの予定です。***

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日 本 橋 (起 点)
甲州街道の起点は日本橋です。
日本橋を起点に4里毎に一里塚が設定されました。
三越前 日本道路元標碑 東京市道路元標
1.三越前から日本橋方面を望む 2.日本道路元標(複製) 3.東京市道路元標

1.本日のスタートです。メトロ銀座線「三越前」のA2出口を出て三越前で
 日本橋方面を撮った写真です。
2.そこから日本橋右手前(北詰西側)まで進むと「日本道路元標」(複製)
 が見られます。本物の元標は日本橋の真ん中にあるので車が走って
 いて近くでは見られませんでした。
 説明板によると1604年に日本橋が5街道の基点とされたようです。
 5海道=東海道・中山道・奥州街道・甲州街道・日光街道)
3.「東京市道路元標」が「日本道路元標(複製)」の隣にたっていました。
日本橋1 日本橋2 親柱2 親柱1
1.側面から見た日本橋 2.橋央から見上げた景色 3.親柱に「にほんばし」「日本橋」の文字

1.2.せっかくの日本橋です。写真に収めてみました。
 空が少ししか見えないので抑圧されているように感じました。ちょっと残念でした。
3.橋の親柱には15代将軍・徳川慶喜の書による「日本橋・にほんばし」の文字が記され
 ていました。
日本橋説明板 高札場跡
1.日本橋説明板 2.高札場跡&説明碑

日本橋南詰西側に日本橋説明板、高札場跡&説明碑があります。
1.日本橋説明板に、日本橋が初めて架けたれたのは徳
 川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)とつたえられて
 いる。現在の日本橋は東京市により石造二連アーチ
 に明治44年に架けられたものである。と記されてい
 ます。
2.高札場跡&説明碑 高札場を模した「日本橋の由来
 碑」です。
 慶長11年12月8日設置された高札場のあった場所で
 もある。高札場には町奉行よりの通達が幕末まで利
 用されたようです。

一石橋親柱 一石橋の歴史 石標 石標説明板
1.一石橋親柱 2.一石橋の歴史 4.石碑 3.石標説明板

1一石橋親柱. 日本橋の西側の橋です。
2.一石橋の歴史 一石橋を渡ると右側(北詰東側)に説明板があります。  江戸時代初
 期に既に元となる木橋の記載が見られる。 木橋としては明治6年(1873年)の架け替
 えが最後で、大正11年(1922年)6月に鉄筋コンクリートRC花崗岩張りのアーチ橋と
 して改架された。現在は南詰下流側の親柱1本を残すのみで他は新いものである。
3.石碑 一石橋手前左側(南詰西側)あります。
 「満よひ子の志るべ 」と彫られていました。しるべの右側には「志(知)らする方」、左側
 には「たづぬる方」と彫られているそうですがよく分かりませんでした。
4.石碑説明板 石碑の傍にあります。
 江戸時代も後半に入る頃、この辺りから日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったら
 しい。迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有
 力者が世話人となり、これを建立したものである。しるべの右側には「志(知)らする方」
 左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがある。使用法は左側の窪みに迷子
 や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は
 、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。このほか浅草寺
 境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたようだが、
 現存するものは一石橋のものだけである。などと書かれていました。

 一石橋を見たら東京駅の八重洲口を目指します。


1.北町奉行跡地の場所 2.北町奉行跡地の碑

1.東京駅八重洲口グランドトウキョウ・ノースタワー内の
 大丸を右に曲がった隅に「北町奉行所跡」の碑があり
 ます。ちょっと分かりずらいところで警備の方に尋ねた
 ところ丁寧にも案内してくれました。
2.江戸町奉行は幕府の職制の一つで寺社奉行・勘定奉
 行とともに三奉行と呼ばれていた。〜途中略〜「いれ
 ずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四
 郎)は天保11年(1,840)3月から3年の間北町奉行の
 職にあった。などと記されていました。
この後、駅構内の中央通路口を進み北口に出ました。

----------丸の内口駅舎----------

 北口を出ると案の定、駅舎は復元工事真っ最中でした。 東京駅の開業は1914年(大正3年)。当初、ドイツ人設計家によるドイツ・ネオバロック様式の鉄筋レンガ造り3階建だったのが太平洋戦争で焼失し、戦後2階建ての駅舎にされものだそうです。
 現在、創建当初の3階建てに復元工事が進められており、完成は2年後の2011年予定とのことであります。完成予想図を見ましたが、当然のことながら現在のイメージが引き継がれているようです。
 東京駅丸の内駅舎を見た後、北側の永代通りの方に移動し大手門に向かいました。
大手門1 大手門2
----------大手門----------

江戸城の正門、大手門です。
江戸城は1457年に太田道灌により築城された城。1590年に徳川家康が入城して以来、徳川幕府の居城となった。. 明治元年(1868年)10月に「宮城」とされ、翌2年(1869年) 御所を始め、諸行事を行う宮殿、宮内庁関係の庁舎がおかれた。 第二次世界大戦後に宮城の名称が廃止され、江戸城跡一帯を指して「皇居」と呼んでいる。

馬場先濠 明治生命館1 明治生命館2
1.和田倉噴水公園 2.和田倉濠 .----------3明治生命館----------

1.大手門を見た後、和田倉噴水公園を通り
2.和田倉濠を見ながら日比谷通りに出ました。
 日比谷通りを馬場先門に向かうと左側に明治生命館が見えてきます。
3.写真は明治生命館の前で撮ったものと、馬場先門を二重橋の方に入った処で撮ったものです。
 小学生の頃、東京に修学旅行に来て二重橋の前で記念写真を撮りました。写真を撮った後、「向うに見える
 建物が「GHQ」が入っている建物だ」と説明され、「怖いもの?」を見るような気がした事が昨日のように蘇り
 ました。 当時の風景とは全然違って見えました。

  後で調べて分かったことですが、
 「明治生命館」はアメリカ極東空軍司令部(FEAF)として使用するためにGHQ(連合国軍最高指令官総司令部)
 に接収され、米・英・中・ソの4カ国代表による対日理事会(ACJ)の会場として使用された建物。1952年(昭和
 27年)に接収解除

 「第一生命館」は、1945年に連合国軍総司令部(GHQ)庁舎として接収された建物。(1952年(昭和 27年)に
 接収解除)。第一生命館では、現在でもマッカーサー総司令官室が保存され、一般に公開されている。
 1995年に「第一生命館」は、隣接する「農林中央金庫有楽町ビル」と一体化させるよう中間に高層階部分を
 増築し、「DNタワー21(第一・農中ビル)」として改装されている。

 ということで、GHQの入っていたのは「第一生命館」ということを忘れて見落としてしまいました。
 (第一生命館の所在地:帝国劇場と丸の内警察署の間)

日比谷目付
1.日比谷目附跡 2.心字池

 日比谷通りを南下して日比谷交差点までいくと日比谷公園です。公園の入口に日比谷目附跡があります。そのすぐ隣が心字池です。
かつては江戸城日比谷御門の一部で、今はお濠の一部を心字池として残しているのだそうです。

旧法務省本館1 旧法務省本館2
------------旧法務省本館------------

日比谷公園を出て、日比谷濠に沿い行き祝田橋交差点を越えるとやがて左側に美しい建物が見えてきます。ドイツ人設計家によるドイツ・ネオバロック様式の法務省の旧本館です。写真は進行しながら裏側、横側、正面と撮っていきました。正面を撮ったらちょっと戻って桜田門交差点を横断して桜田門に行きます。

桜田門1 桜田門2 桜田門3
------------ 桜  田  門------------

 写真は順に入口左側から撮った写真、入口右側から撮った写真、.門の傍に行って撮った写真となっています。
 桜田門は「桜田門の変」により有名。復習すると次のようなことになる。
安政5年(1858年)4月、井伊が大老に就任した。井伊は無勅許の日米修好通商条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。 安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを伊井大老が弾圧した事件である。 安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変において井伊が殺害された後、弾圧は収束する。
 さて、桜田門は中に入れますがUターンして先に進みました。

1.桜田濠 2.憲政記念館入口 3.記念塔 4.この地の由来書

1.桜田濠を右に見ながら進んでいくと段々と登り坂になります。
2.坂を登り切る頃、国会前交差点になります。交差点を横断すると真正面に国会議事堂が見られま
 す。
 議事堂に向かって右側の公園に憲政記念館があります。憲政記念館は、憲政の功労者である尾
 崎行雄を記念して昭和35年に建設されました。
3.その時に建てられた記念塔:三面塔星型時計台(左写真)は、立法・行政・司法の三権分立を象徴
 したもので、塔の高さは「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)一歩を進む」ということわざの、努力の上に
 さらに努力して向上するの意味から、百尺( 30.3メートル)より高くした 31.5メートルに設定されてい
 るそうです。
4.記念塔のすぐそばに「この地の由来」の碑がありました。
 「室町時代の末期太田道灌がよんだ「わが庵は松原つゞき海ちかくふじの高根を軒端にぞ見る」
 という歌の松原の一角に連なっていたこの地は江戸時代のはじめ 加藤清正が居住し 寛永年
 間に伊井家の居所となり明治初期に及んだ開国の難所に当たった大老伊井直弼もここに住んで
 いた明治以降弾正台ついで参謀本部の所在地となったこの地にある日本水準原点は明治24年
 に設けられ昭和27年この地は衆議院に移管され35年憲政の功労者尾崎行雄を追念してここに
 浄財で記念館が建設された」とありました。

日本水準原点標庫 標庫の説明書 日本水準原点説明書
1.日本水準原点標庫 2.標庫の説明書 3.日本水準原点説明書

1.日本水準原点標庫の写真です
2.「標庫の説明書」によると、「日本全国の統一された標高決定のための基準とし
 て、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物は水準原点標
 を保存するために建設されたものである」と説明されていました。
3.「日本水準原点説明書」 「水準原点の位置は この建物の中にある台石に取
 り付けれた水晶板の目盛の零線の中心で その標高は24.4140メートルと定め
 られています。この値は明治6年から長期にわたる東京湾の潮位観測による平
 均海面から求めたものです」とありました。

伊井邸跡 江戸の名水
1.伊井邸跡 2.江戸の名水

尾崎記念館を出て元の桜田門交差点の方に戻り交差点手前を左折して坂道を段々降っていきます。尾崎記念館の植え込みが終わる頃、左手に「伊井邸跡碑」が出てきます。
1.伊井邸跡碑と使用していた井戸の写真です。
2.その隣にこの井戸水が「江戸の名水「桜の井」である
 ことが記されていました。
ここから少し下った所が三宅坂交差点です。交差点を渡り右側に内堀通り・桜田濠を眺めながら北上します。

4km道標 国立劇場 桜田濠の続き 半蔵門
1.4km道標 2.国立劇場 3.桜田濠の続き 4.半蔵門

隼町一里塚 (1番目)
1.左側に最高裁判所が見えてきます。しばらく行くと路肩に「日本橋より4KM」
 の道標が見えてきます。
 この辺りに最初の一里塚「隼町一里塚」があったと言われています。
2.さらに行くと100メートルも進まないうちに左側に国立劇場が現れます。
3.更に進んで半蔵門に向かいます。途中何もないので桜田濠を撮りました。
4.半蔵門交差点を渡れば「半蔵門」です。この門は柵が設けられていて近づいて見る事は出来ませんでした。
 ここからいよいよ江戸城と別れ、左折して新宿通りに入って行きます。新宿3丁目交差点までは直進です。

麹町3丁目交差点 麹町大通り案内図1 町名由来
1.麹町3丁目交差点 2.麹町大通り案内図1 3.町名由来

麹町4丁目説明板 .麹町大通り案内図2 町名由来
4.麹町4丁目説明板 5.麹町大通り案内図2 6.町名由来

1.麹町3丁目の現在の様子です。
2〜6.
 後から類推したことですが麹町各町内に、「大通り案内図」
 や「説明板」「町名由来」が表示されているようです。
 現在の様子と往時の様子が一目瞭然と説明されていました。
 1丁目からもっと慎重に見てくればよかったと反省しきりです。

四ツ谷駅前 四ツ谷目附
1.四ツ谷駅前交差点 2.四ツ谷目附

1.四ツ谷駅前交差点の現在の様子です。
2.交差点を渡り右折するとJR四ツ谷駅です。駅の北隣
 に四谷目付跡があります。

四谷4丁目交差点 四谷大木戸跡碑 跡碑説明板
1.四谷4丁目交差点 2.四谷大木戸跡碑 3.跡碑説明板

1.四谷4丁目交差点です。交差点中央に見える高いビルが四谷区民ホ
 ールです。
2.四谷大木戸跡碑 四谷区民ホール手前に小さな緑地があり、その中
 に.四谷大木戸跡碑があります。
3.大木戸跡碑の傍に説明板がありました。碑には実際の大木戸の位置
 は、これより約80メートル東の四谷4丁目交差点の所にあった。と記さ
 れていました。

内 藤 新 宿
四谷大木戸を出ると「内藤新宿」になります。

甲州街道の最初の宿場は高井戸でしたが、日本橋を出発 して四里八丁(16.6km)もあり人馬ともに不便でした。
そこで名主喜兵衛(のちの高松喜六)は、元禄10年(1697)に宿場開設を幕府に願い出、元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部や旗本朝倉氏の屋敷など返上させてこれにあてました。こうして「内藤新宿」は元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなりしました。
宿場は大きく3つにわかれ、大木戸側から下町(現新宿1丁目)・仲町(現新宿2丁目)・上町(現新宿3丁目)と呼ばれ ました。仲町の太宗寺の門前には本陣(大名・公家・幕府役人な どが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を 取り扱う施設)などがあったそうです。
享保3年(1718)に宿場は一旦廃止となり,天永元年(1772)に再興されているそうです。

新宿1丁目交差点 新宿御苑大木戸門 新宿御苑のルーツ
1.新宿1丁目交差点 2.新宿御苑大木戸門 3.新宿御苑のルーツ
内藤新宿下町
1.新宿1丁目交差点 四谷区民ホールを過ぎたところが新宿
 1丁目交差点です。この辺りが内藤新宿下町の宿場だった
 ようです。
 
2.新宿御苑大木戸門は新宿御苑東北側の入口で、新宿1丁目交差点を左折した突
 き当りです。新宿御苑大木戸門と記されていますが、四谷大木戸の大木戸の名前
 が継承されているということでしょうか?
3.大木土門の傍に新宿御苑のルーツという表示板がありました。
 徳川家康が江戸城に入城した際に、譜代の内藤清成に授けた大名屋敷の一部で
 あると記されていました。

旧新宿門 新宿門 新宿2丁目交差点
1.新宿御苑旧新宿門 2.新宿御苑新宿門 3.新宿2丁目交差点

1.旧新宿門 大木土門を出て御苑沿いに西に進むと旧新宿門が出てきます。
2.更に進むと、新宿御苑新宿門となります。
内藤新宿仲町
3.新宿2丁目交差点は、新宿御苑新宿門を出て北に進み、
 新宿通りと交差したところの交差点です。
この辺りが内藤新宿仲町だったようです。
下町から仲町に入った右側奥に太宗寺がありますが、その門前あたりに本陣や問屋場などがあったようです。

新宿3丁目交差点 追分だんご 新宿追分碑 マンホール
1.新宿3丁目交差点 2.老舗・追分だんご 3.新宿追分碑 4.マンホール

内藤新宿上町
1.新宿2丁目交差点を更に西に進むと新宿3丁目交差点になります。この辺り
 が内藤新宿上町の宿場だったようです。
2.追分だんごの老舗は新宿3丁目交差点手前50メート左側にありました。江戸の当初からあったかど
 うかは知りません。
3.新宿追分碑 新宿3丁目交差点左手前の「明治通り」の標識の傍にありました。近代的な綺麗な追
 分碑でした。
4.マンホール 追分碑の目の前にあります。色々往時の事が記されて面白いものでし
 た。次に行く予定の天竜寺も載っていました。

新宿追分
 新宿追分は新宿3丁目交差点辺りにあり、甲州・青梅の二つの街道が分かれていたところ。
 左に曲がれば甲州街道、右に曲がれば青梅街道です。

追分一里塚 (2番目)
前記3の新宿追分碑の付近にあったといわれています。

天竜寺 時の鐘
1.天竜寺 2.時の鐘

1.天竜寺 新宿3丁目交差点を左折して進むと新宿4丁
 目交差点になり国道20号線に合流します。国道20号
 線を通り越し暫く行くと左側に天竜寺の山門が現れま
 す。
2.時の鐘 天竜寺の境内に入ると奥左側に「時の鐘」を
 鳴らした鐘楼が見えてきます。
天竜寺を見た後、新宿4丁目交差点に戻り左折して20号線を進みます。
 暫く行くと右側に新宿南口が現れてきます。更に進むと首都高速高架橋の下の道路になります。

高速道路下 笹塚駅前交差点 笹塚一里塚跡
1.高速道路下 2.笹塚駅前交差点 3.笹塚一里塚跡

1.高速道路下の20号線を黙々と歩き初台・幡ヶ谷通り越していき約3Kmほ
 ど進みます。
2.笹塚交差点の次が笹塚駅前交差点です。
笹塚一里塚 (3番目)
3.笹塚一里塚跡説明板が笹塚駅前交差点の50mほ
 ど先の交番手前左側角にあります。ここが第3番目
 の一里塚のあった場所だそうです。


***第3回目 2009.04.30(木)、晴***
本日の散歩は日本橋から上高井戸16Kmの予定でしたのが4KM手前の笹塚で終了です。
日本橋〜笹塚一里塚=約12Km、歩数計=38283歩 歩行時間 8:30〜15:30 休憩30分=6時間30分